yskszk氏を悼む2008年05月26日 22時54分

比較的WEBを巡回しなくなった今でも、よく読ませていただいていた"pele-mele"のオーナーだったyskszk氏こと鈴木芳樹さんが亡くなった、と、きしさんのサイトで知りました。

pele-mele http://d.hatena.ne.jp/yskszk/

幾重もの意味で、残念でなりません。

一昨年の不運な事故による頭の怪我から完全復調されるのを祈っていました。しかしブログの記述にはいわゆるタイプミス/言い間違い系ではないように思われる誤字が目立ち、ひそかに心配していました。

にもかかわらず、面識もなく、薄いかかわりの私ごときが言うもんじゃない、ご本人も重々ご承知だろう、と思って何を言うでもなく、同じだいこんの里に住む同士、そのうちお目にかかれるだろうと、理由もなく思っていました。

そんなのは間違いでした。
会ってみたいと思う人には、もたもたせずに会いに行ったらいいんです。いずれ、話そうと思っても話せなくなる日がくるのだから。

それにしても、何度もこんなふうにしくじっては悔やんできた気がする。たとえば大叔父の一人、あるいは職場で引き立ててくれた先輩。何度同じことを繰り返せばすむのか自分。

まだまだ油断は禁物。2007年07月28日 11時37分

自民劣勢のニュースが毎日かまびすしく流れていますが、気になります。これはマスメディアの確信犯的な報道姿勢ではないか、と。

長年メディアを支配してきて、「アナウンス効果」を知らずに報道してることなんて、ありますまい。

つまり、今の報道のあり方は「民主大圧勝」になりすぎないよう、バランスを取ろうとしているのです。もし仮にその意図がなく報道しているのだとしたら、プロのくせにそんなこともわからないのか、と言ってやりたいです。

そんなわけで、安倍に引導を渡せるかどうかは、まだ流動的です。
最後まで気を抜かずにいきましょう、皆さん。

ああ何て「美しい国」--O what a beautiful nation they say they are making--もう1つ。2007年07月28日 11時22分

さて。赤城という大臣はおろかまともな大人の風上にも置けない人の件ですが。事務所経費問題×2に加えて、あり得ない領収書の2重請求。ことここに及んでもなお、与党は事務所経費領収書5万円未満免除という非常識な特権を堅持し、コピーの領収書を通した責任に口をぬぐっています。この郵便局の領収書の20万円あったら人が何日暮らせるだろう。かれらのいう「美しい国」では、こういう甘い汁はそのまま温存されます。

さあ、本気出しましょう、みなさん。

ああ何て「美しい国」--O what a beautiful nation they say they are making--(3)2007年07月25日 23時26分

政府公報でやってくれた、と思ったら、こんどは安倍首相の側近たちがこんなことを言い始めています。

「政権選択選挙ではない」官房長官ら、首相退陣論を牽制http://www.asahi.com/politics/update/0724/TKY200707240597.html

まあ、確かに、制度的には直接首班指名につながってはいません。
でも、これってつまるところ参院不要論ですよね。参院がどうなろうが衆院がゴリ押しすれば政策は通るという。
参院選の前に、何と主権者を愚弄した物言いでしょうか。

今回、野党が参院を押さえたら、とことん議論を尽くすという議事運営に徹して、ちょっとでも与党がゴリ押ししそうな案件は片っ端から時間切れ廃案に持ち込んでみてほしいもんです。

それが、民意です。

ああ何て「美しい国」--O what a beautiful nation they say they are making--(2)2007年07月25日 23時23分

さて選挙戦も中盤になって飛び込んだこのニュースには、驚きました。
というか、呆れました。

「究極の選挙違反」か、政府広報紙・民主党告発へ
http://www.janjan.jp/election/0707/0707199373/1.php

ごく普通に考えて、公選法違反でしょう。
政権党であるという立場を悪用していると考えるのが、選挙権の精神というものです。

公正な選挙なくして、何が美しい国か。
それとも、米国(の2000年大統領選)並みに「美しい」とでも?

ああ何て「美しい国」--O what a beautiful nation they say they are making--(1)2007年07月25日 23時17分

選挙戦も終盤になってしまいましたが、今のうちにとりあえず記してはおきたいことを、3連発くらいで。

参院選の日程を6月に入ってからずらす、というのがどういうことか。

隅田川花火大会の予備日がなくなりました。土曜が雨なら流れます。

まあ、そんなのは「ぜいたく」だから、今年くらいしょうがない、という人もいるでしょう。(私はそんな考えは失礼だと思うけれど)

しかし、
「投票所に使う体育館に改修工事が入っていて、他に替えなければならない」
「体育館で予定されていた夏の大会イベントの予定を変更しなければならない」
という例があるとなるとさすがに、何という不躾な…と思います。

そうやって投票日をずらした理由は、単に「与党が」「特定の」法案を成させ「たかった」から、なわけです。成立させ「なければならない」深刻な事情があったわけではありません。

そんなエゴのために翻弄される市民のささやかな日常。
彼らの目指している「美しい国」は、しょせんそういう場所なのです。

今こそ真価が問われる! 〜超・クールビズ宣言2007年07月21日 03時18分

さて、中越沖地震によって柏崎刈羽原発が稼働停止となった今、改めて夏の装いを根本から考え直したいと思います。

忘れもしない(というか、まあ、そんなに忘れるようなもんでもないですが)、福島原発の停止の際に東電が夏期の電力不足懸念を煽り、無理やり再稼働の道を開いた2003年夏。あのとき、クールビズで冷房温度を上げようなんて話は、カケラもありませんでした。そして今年、クールビズ運動も(内容は色々気に入らないところがありますが)3年目を迎えています。今回も早速東電が、猛暑になったら電力不足かも、なんてアドバルーンを揚げていますが、冗談も休み休みおっしゃいませ、という感じです。ともかく4年前とは、夏期の電力消費環境は違うはずです。仮に十分違いが現れてなくても、具体的な提案をすれば多くの人が節約に協力するような環境が出来上がっています。

というわけで、今こそ「超・クールビズ」ではないでしょうか?
(過去の関連記事:http://blog.goo.ne.jp/citizen-hyomi/e/1246ccca68fccb8a3f4f5c92fe25af39 )

一応我が職場もクールビズと言ってはいますが、裾を入れろってのが鬱陶しくてしょうがない上に、来客があったらジャケット&タイで応対しろなんてことになってます。そんなことしたらお客様が意地でもジャケット&タイをしてくるじゃないですか! 電車の冷房を弱くできませんよ! まったく、何て半端なんだろう。

ジャケットを脱ぎ、ネクタイを取っただけのクールビズ以上の装いを想像できない人たちというのは、多分服飾の歴史や服飾の意味についてあまり考えたことがないのでは、と思います。そこまで考えなくても、服飾の意味が「記号(表象)」と「実用(体温調節と被覆)」から成っている、という基本だけ押さえておけば、そこから先にはいろんな自由が開けているはずです。

一昨年、調べるぞと言いながらまだ何も調べていないので、この2年間で問題認識はあまり深まってませんが、基本的な論点がずれることもないだろうと思っています。それを服飾の個々の要素に沿って整理すると、

 ・背広はそもそも「着崩し」の結果であった
 ・ワイシャツは下着である
  (裾をズボンに入れるのは、ほぼ確実にそれが理由と思われる)
 ・燕尾服やタキシードから背広に至るまで、公の場の洋装は一貫して
  「ズボンの線」を覆い隠して来た

というあたりに集約されます。
これに照らして考えると、今時点のクールビズは、「着崩しすることを割り切る」という点以外、見るべきものがない、ということです。

そんなわけで、私は裾出しに大賛成です。裾を入れるという今主流の装いは、着ていて暑苦しいだけでなく、上に書いた理由で見た目の面でも中途半端に思えます。但し、ワイシャツと同じ曲線裁ちの裾は出してはいけないと(少なくとも今のところは)思います。あれはズボンにたくし込んだ裾が出にくくするための機能デザインだからです。あくまで、裾を出して着るシャツはそれ自身が「上着」としてデザインされていることが必要です。裾は直線もしくはほぼ直線と見えるように裁ってあり、サイドベンツなどあればなお上着としてきちんと見えます。飾りステッチがあるのもおしゃれですよね。

あとは襟の形が、ボタン一つ外してもきちっと見えるようなデザインならいいですよね(そういえば、テイラードの襟の形は、こういう経緯で出来たのではなかったかと)。もっと言えば、襟元から「下着」であるTシャツが見えるのもなんだか全然構わない気がします。ワイシャツだって見せてるし! 見せることを考えた色合いや襟デザインのTシャツならよいのではないでしょうか。

まあ、これは一つの考え方ですが、アロハやかりゆしウェアなどの開襟シャツという方向性もあるでしょうし、服飾の歴史を和装にまで広げれば、また意外なヒントがあるかもしれません。

そんなわけで、原発が停まってるからとハラハラする前に、まだまだできることはあるはずで。本気出しましょう、みなさん。

守りたいものを守りたい。〜ある料理店の閉店に寄せて2007年06月23日 11時26分

昨晩は都心某所にて、長年の友人が「苦楽をともにした」料理店の閉店を惜しむ宴会でした。大衆的中華料理の良心のしかも真髄というべき味を、皆で堪能しました。芙蓉卵、烏賊玉、炒飯、そしてなんとオムライス(!)と、卵の味つけと火の通し方を料理によって絶妙に使い分ける技に、一同から感嘆とどよめきの声が上がりました。

宴もたけなわ、その友人が店への思いを短く語ったのですが、彼は(酔ってはいたのですが)「…僕たちが、一生懸命働けば働くほど、こういう店がなくなっちゃうんですよ!」と言って言葉に詰まり、感涙にむせんだのでした。同席のメンバーからは「そりゃ考え過ぎだよDちゃん」と、慰めがてらのツッコミが入りはしましたが、しかし私にはなんだかよくわかる気がしました。

日々の暮らしのために一生懸命がんばっている。その仕事の中でできる限り最上の仕事をしようとしている。子どもの世話をし、子どもに何を残そうか真剣に考え、全身でぶつかっている。なのに、その結果の集積として動いているマクロな社会は、地場の良心的な店の生きる道を閉ざし、大規模な再開発を進め、そこには海外巨大ブランドの高級ブティックが軒を連ね、目の玉の飛び出るような値段のつまらないバッグを、どうしてお金を持っているのかよくわかならいお金持ちたちが買い漁る…そういう社会をここ数年くらい、私たちは生きてきています。彼の一言は、そうした状況にたいする痛恨の念、本当に守りたいものを守れなかった辛い心情の吐露のように思えたのです。

守りたいものを守って生きていく、そのことにもっと真剣にならなければならない、そういう時代なのかもしれません。それにしても、どうやって守っていったらいいのだろう? この宴でご一緒した某氏が、お上がどうにかしてくれるって性根を変えないとどうしようもない、住民が自分のほしいものは自分で何とかするって文化を身につけないと良くならない、と仰っていました。話を伺いながら私は、自分の地元の活動のいくつかを思い起こしていました。川の水と生き物を守る運動、緑の森を守りイベントを催す自主管理グループ…どちらもちょこっとお手伝いしているだけですが、自分たちの手で自分たちのコミュニティを作っていく気持ちよさを、いつも感じます。

自分たちのコミュニティを自分たちで構想し、作りあげていく。仕事の水圧に押し流されているだけでなく、やはりちょっと踏ん張って、意識してそっちの方向に動かなくては、と思います。ただ、最近気になるのは、こうした市民の自主的なコミュニティ活動への流れを、行政が事業の民間化のために利用しようとしていることです。そのなかでは民間の「創意」が活かされることなく、行政に都合の良い民間の「参加」(という名の、いわば請負)だけが進められていたりする、という苦々しい状況です。こうした状況とも、たたかっていかなければならない。色々な困難はあるけれど、ほんとうに守りたいものは何か、それを忘れないでいたいと思います。


<追記>
このエントリのカテゴリは「おいしい生活。」ではありません。そのわけはもちろん、この店がもうこの地上から消えてしまうからであります。昨夜集まった私たちは、この店の味と雰囲気を舌と心にしかと刻みつけ、この店のない新しい世界でその記憶を持ち続けることを誓ったのでした。中華料理店Rよ、永遠に。

平和を希求する自立した国家であれば、いいじゃない。2007年05月20日 00時08分

岡崎なんとかという安倍首相のブレーンらしき人が、集団的自衛権を憲法は認めていないと言い続けてきたのは役人の解釈にすぎないのであってうんぬん、とTVで喋っておいででしたが、はしたないというか品性がないというか、そう思ったのは気のせいだけではないでしょう。

「もし女房が殴られてたら見て見ぬ振りをしろってことですか?」

米国は女房でも身内でも、ないですよ?

ていうより、集団的自衛権を簡単に絵にでも書いてみればわかりそうなものです。気に染まないながらもやり手の隣人がいて、何かと付き合うことになったとします。ある日、そこの長男が喧嘩っ早くなってあちこちで喧嘩をふっかけ、そのうちやり返されて傷だらけになりました。さて彼のためにあなたは反撃に行きますか? 行ったら間抜けですよね。そんなの、自立したいいオトナのすることではありません。

戦争をふっかけてもいない平和友好的な国が一方的に戦争をふっかけられたときにどうするか? それは集団的自衛権などという連座制みたいな妙なものを持ち出さなくても対処できます。良識ある国際社会の構成員としてどうするか、「平和を希求する一個の自立した国家」として考えればよいのです。

妙な議論を「首相の私的諮問機関」とかいう制度的にグレーな方法で進めているので、要注意です。

http://www.asahi.com/politics/update/0518/TKY200705180104.html

声が小さいのが気になったこと。2007年05月13日 22時14分

3月下旬だったはずです。
「沖縄戦での住民集団自決で、日本軍の強制があったとする記述は不適切」とする教科書検定意見が出た、と聞いて、耳を疑いました。
で、なんで…と思ったものの、意外なほど騒ぎにならない。

気になりながらも、日々は流れていきました。

で、もやもやしていたのですが、きしさんがこのたびまとめて下さって、かなりすっきりしました。感謝を込めてリンク。

http://sociologbook.net/log/200705.html#eid131

何が正しいかを考えるなら、こちらを読んでから。